로그인『入社前に、一度ご相談したいことがございます。今朝の婚姻発表を受けまして、社内で少し問題が起きています』
佐伯の言葉を聞いた瞬間、美緒の頭に最初に浮かんだのは、内定取り消しという言葉だった。
せっかく自分で面接を受けた。
実務を見てもらった。
初めて給与交渉までした。
それなのに結局、神代蓮司の妻という立場が追いついてくる。
そう思っただけで、胸の奥が冷たくなった。
「……私の採用について、ですか?」
『はい』
佐伯は曖昧にしなかった。
『ただ、最初にお伝えしておきます。現時点で、当社から内定を取り消すと決定した事実はありません』
「現時点で、ということは、そういう意見が出ているんですね」
第27話 前の会社で無視された提案を、今度の職場は最後まで聞いてくれました 運営改善プロジェクトの初会議は、美緒がグランド・ルミエール東京へ入社してから一週間後に開かれた。 会議室へ向かう途中、美緒は何度も社員証を指先で触っていた。 緊張している時の癖なのだと、最近になって気づいた。 今日の議題は、直近半年で増えているスタッフの離職と、顧客満足度低下の相関について。 あまりにも前職で見てきた問題と似ている。 だからこそ、怖かった。 似ているからといって、同じではない。 ロイヤル・オルビス東京で起きていたことを、そのまま新しいホテルへ当てはめれば、それこそ経験者の思い込みになる。「神代さん」 後ろから呼ばれ、振り返る。 木村だった。「会議?」「はい」「緊張してますね」「分かります?」「社員証を壊しそうなくらい触ってるので」 美緒は慌てて手を離した。「そんなに?」「そこまでは。ただ、初参加でしょう」「はい」「何か言わなきゃと思わなくていいですよ」「え?」「運営改善って名前がつくと、初日から改善案を出さなきゃいけない気になる人がいるから」 見透かされたようで、美緒は少し笑った。「まさに今、それを考えてました」「まず聞いてください。このホテルが何を問題だと思ってるのか」「はい」「前のホテルではこうだった、は参考になります。でも、ここも同じだと決めるのは別」「分かりました」「それが分かってる顔ですね」「さっき自分にも言い聞かせてま
第26話 私を一番警戒していた先輩から、「助けてください」と言われました グランド・ルミエール東京で働き始めて五日目、美緒はようやく館内で迷わなくなってきた。 従業員用エレベーターの位置も、バックヤードからロビーへ出る最短ルートも、宿泊部の備品庫が見た目より奥行きのある妙な造りをしていることも覚えた。端末操作はまだ前職の癖が出るものの、木村に教わりながら一つずつ修正している。 客前に立つ時間も増えた。 初日に比べれば、周囲から向けられる好奇の視線も少なくなった気がする。 なくなったわけではない。 休憩室で入ると会話が一瞬止まることもあるし、必要以上に丁寧な言葉遣いをするスタッフもいる。 反対に、佐藤のように好奇心を隠さない人間もいる。 そして、最初から明確に美緒を警戒している人もいた。「神代さん、それはまだ触らなくていいです」 午前十一時過ぎ、ゲストリレーションデスクで声をかけてきたのは、相沢香織という女性だった。 三十四歳。 ゲストリレーション部門で六年働いているベテランで、木村に次いで現場をよく知っているらしい。 美緒が来る前からシニアスタッフ昇格の候補に名前が挙がっていたとも聞いた。 美緒は端末から手を離した。「すみません。今日のVIP到着一覧を確認しておこうと思って」「木村さんから指示されました?」「いいえ。でも午後からロビーに入るので、名前と注意事項くらいは把握しておいた方がいいかと」「必要な情報はその時に渡します」 言い方は丁寧だ。 けれど柔らかくはない。「分かりました」 美緒は素直に画面を閉じた。 相沢はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻る。 隣にいた宮下が小声で囁いた。
第25話 初出勤の日、私を待っていたのは歓迎だけではありませんでした グランド・ルミエール東京への初出勤の日、美緒は目覚ましが鳴る三分前に目を覚ました。 まだ薄暗い寝室で天井を見上げ、最初に思ったのは、緊張している、ではなかった。 今日から、また働ける。 その事実だった。 ベッドから起き上がると、身体の奥に少し遅れて緊張が追いついてくる。前のホテルへ入社した時以来、七年ぶりの「初日」である。それだけでも落ち着かないのに、今の美緒には以前にはなかった肩書きまでついている。 神代グローバルホールディングスCEO、神代蓮司の妻。 昨日までなら、その肩書きを頭の隅へ押しやって出勤するつもりだった。 しかし、もうそれは無理だと分かっている。 婚姻は公表された。 新しい勤務先まで漏れ、ホテルには報道関係者から問い合わせも入っている。 知られているものを、知られていないふりはできない。 だからこそ、そこから先を自分で決めるしかなかった。 美緒は着替えを済ませ、リビングへ向かった。 キッチンにはすでに蓮司がいる。「おはようございます」「おはようございます」 返事をしながら、美緒は一瞬足を止めた。「……早くないですか?」「今日は美緒さんの初出勤なので」「それと蓮司さんが早起きするの、関係あります?」「朝食くらい一緒に食べたくて」 テーブルには、トーストとサラダ、ゆで卵、それにコーヒーが並んでいた。「ゆで卵」「失敗しにくいものを選びました」「学習しましたね」「かなり」 美緒は笑って椅子へ座る。
第24話 「CEOの妻を雇うのは危険です」と、入社前に反対されました『入社前に、一度ご相談したいことがございます。今朝の婚姻発表を受けまして、社内で少し問題が起きています』 佐伯の言葉を聞いた瞬間、美緒の頭に最初に浮かんだのは、内定取り消しという言葉だった。 せっかく自分で面接を受けた。 実務を見てもらった。 初めて給与交渉までした。 それなのに結局、神代蓮司の妻という立場が追いついてくる。 そう思っただけで、胸の奥が冷たくなった。「……私の採用について、ですか?」『はい』 佐伯は曖昧にしなかった。『ただ、最初にお伝えしておきます。現時点で、当社から内定を取り消すと決定した事実はありません』「現時点で、ということは、そういう意見が出ているんですね」 電話の向こうで、わずかな間があった。『出ています』 美緒はソファへ座った。「理由を聞いてもいいですか?」『もちろんです。可能であれば、今日一度ホテルへお越しいただけますか。電話だけで済ませたくない話でもありますので』「分かりました」『ご都合は?』「午後ならいつでも」『では二時でお願いできますか』「はい」 通話を切る。 数秒、スマートフォンを握ったまま動けなかった。 それから反射的に蓮司へ連絡しそうになり、指を止める。 相談したい。 怖い。 けれど、これは美緒の就職先の話だ。 まず自分で聞かなければならない。 もし会社側から神代グローバルとの調整が必要だと言われたら、その時
第23話 「財閥CEOを捕まえた地味女」――私の結婚が、ネットに晒されました 神代グローバルホールディングス広報部から届いた封筒には、簡潔な文書が三枚入っていた。 美緒が最初に目を止めたのは、「婚姻情報に関する外部照会発生のご報告」という堅い表題ではなかった。 二枚目に印刷されていた、あるインターネット記事の見出しだった。『神代グローバル若きCEOが極秘結婚――お相手は元ホテル勤務の一般女性』 そこまでは、まだ理解できた。 蓮司は大企業の経営者だ。結婚すれば報道される可能性くらいある。 問題は、その下に並ぶ小さな見出しだった。『出会いは宿泊先? 玉の輿婚との声も』『相手女性は直前まで別の男性と交際か』『妹の婚約発表直後に財閥御曹司とスピード婚――複雑すぎる家族事情』 美緒の指先から、少しずつ力が抜けていった。「……何、これ」 自宅のリビングには、美緒しかいない。 蓮司は本社。 正式な勤務開始までまだ少しある美緒は、今日、入社に必要な書類を整理するつもりだった。 その平穏な予定が、紙三枚で消えた。 文書によれば、昨夜遅く、経済系のウェブメディアが蓮司の結婚を報じた。その後、複数のまとめサイトやSNSアカウントが記事を引用し、美緒の前職や家族関係まで掘り始めているという。 情報源は特定できていない。 婚姻届そのものから得られる情報だけでは説明できない内容も含まれているため、関係者の誰かが話した可能性がある。 ただし、現段階では推測にすぎない。 その注意書きまで、いかにも神代の広報らしかった。 美緒はスマートフォンを取った。 検索しない方がいい。 頭ではそう思う。
第22話 父に初めて、「嫌です」と言いました 父から届いたメッセージを、美緒はしばらく開いたまま見つめていた。『莉奈と亮介君の結婚式の日取りが決まった。姉として出席してほしい。』 短い文章だった。 日付も、そのあとに記されている。 約二か月後。 招待状は改めて送る、と続いていた。 美緒は新しく買ったマグカップを両手で包みながら、画面から目を離せなかった。 結婚式。 莉奈と亮介の。 頭では、いつか来る話だと分かっていた。 二人はすでに婚約を発表している。 父も柊木家も、このまま話を進めるつもりなのだろう。 それでも実際に日取りを知らされると、胸の奥に冷たいものが落ちた。 自分が五年間付き合った男。 結婚するのだと思っていた相手。 その隣に立つのは妹。 そして自分は、姉として笑って出席することを求められている。「……無理」 小さく口から出た。 言った瞬間、自分の声に驚いた。 以前なら、まず考えただろう。 欠席したら父が困る。 親戚が何か言う。 柊木家の顔を潰す。 莉奈が傷つく。 家族関係がもっと悪くなる。 そうやって、自分が出席したくないという気持ちは最後に回した。 けれど今は、一番最初に出てきた。 行きたくない。 その感情は、とてもはっきりしていた。 美緒は返信欄を開いた。『分かりました』 いつもの癖なら、そう打っていた。







